YMO”RAP PHENOMENA(ラップ現象)” – 日本語ラップ以前【24】

スネークマンショー”咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3″~岡雅子”マコとノンコのごきげんいかが1・2・3″を受けて、暫くYMO絡みで…!
スネークマンショー曲をはじめ、日本語ラップの起源を遡っていくとYMOの功績は絶対にスルーできません。

YMO_BGM_表
YMO_BGM_裏

YMO「BGM」
(ALFA RECORDS/JPN LP/ALR-28015)

A-1 BALLET(バレエ)
A-2 MUSIC PLANS(音楽の計画)
A-3 RAP PHENOMENA(ラップ現象)
A-4 HAPPY END(ハッピーエンド)
A-5 1000 KNIVES(千のナイフ)
B-1 CUE(キュー)
B-2 U・T(ユーティー)
B-3 CAMOUFLAGE(カムフラージュ)
B-4 MASS(マス)
B-5 LOOM(来たるべきもの)

YMOが最もラップに熱を上げていた81年作の元祖テクノ・ラップ!

振り返ると”RAP PHENOMENA(ラップ現象)”が収録された5THアルバム「BGM」がリリースされた81年(昭和54年)は、2月にスネークマンショーのLP(“咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3”)、1ヶ月後の3月に本作、8月には岡雅子”マコとノンコのごきげんいかが1・2・3″とラップ歌謡の重要作を立て続けに世に放ったことから、YMO周辺で「ラップ」というアートフォームがアツかったことだけは間違いないかと。
79、80年にUSでSUGARHILL GANG”RAPPER’S DELIGHT”やKURTIS BLOW”THE BREAKS”(邦題”おしゃべりカーティス”!)辺りがヒットとなり、若干のタイムラグを経て日本盤もリリースされているので、国内でも「ラップ」はトレンドになりつつあったんでしょうけど、自分達でもやってみようとアクションを起こしたのはYMOがダントツで早かった!
年表を見てもらえれば一目瞭然ですが、YMO周辺以降、芸人周り(山田邦子や欽ちゃんファミリー)、B級アイドル、本格派ミュージシャン~アイドルと、ざっくりとそんな順番で「ラップ」が浸透していくんで、まだ国内において最先端の時期のYMO自らによる一曲。
ラップ自体も日本語じゃなくて英語だし、音の方もミニマルなテクノ~エレクトロ寄りなんで、ラップ歌謡と呼ぶにはいささかストイックな仕上がりだけど、邦題にもある通り、ラップ現象について歌うYMOらしいユーモアのせいか、そんな難解さは若干中和されているような気も。
強烈なエフェクトがかかってて、よく聴き取れないんですが、印象的なフックだけ抜粋。
ちなみに、細野晴臣と共作で英語のラップを作詞したPETER BARAKANは、当時YMOと同じ事務所にいたラジオのパーソナリティーで、”RAP PHENOMENA(ラップ現象)”に限らず、YMO作品の英詩の作品に高確率でクレジットされている人。
貴重な当時の話をした PETER BARAKANのインタビュー も面白いので、興味のある方は是非。

Rap, rap, everybody rap
Rap, rap, do you think you can rap
Rap, rap, everybody rap
Rap, rap, do you dig, I dig rap

YMO”RAP PHENOMENA(ラップ現象)”(HOOK)

フックの「ラップやろうぜ」的なニュアンスは、拡大解釈すればKURTIS BLOW”RAPPIN’ BLOW”のインストにおける「DO IT YOURSELF」な精神にも通じるもので、そういう意味では本国のラップを正しく日本に伝えていると言えます。
一転、同時期に同じくYMO/細野晴臣が仕掛けたスネークマンショー”咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3″は日本語で、(主役のポジショニングを当然意識したものだったにしても)お笑い要素が強かったのは事実だし、YMO”RAP PHENOMENA(ラップ現象)”と対比すると、日本語でラップするとどうしても早口言葉的でストイックにやるのは難しい(=YMOでそこまでのセルアウトは当時まだしたくなかった)ということだったのかな、とも推察します。
そして、その判断は非常にクレバーで的確だったと思います。

その後、MICROPHONE PAGERが「お笑い臭いイメージを無くそう」と歌った”改正開始”がリリースされたのが93年(V.A.「REAL TIME COMPACT VOL.1」が初出)。
MICROPHONE PAGERが仮想敵と見立てたのは、具体的に名指しこそしないまでも日本語ラップ黎明期から活動していたMAJOR FORCE周辺とかスチャダラパー辺りだったかもしれませんが、古くはスネークマンショー”咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3″以降に醸成されてきた国内の「ラップ」に対するパブリックイメージへのカウンターだったのだろうと。
もしもYMOが、81年にスネークマンショーではなく自らで、英語ではなく日本語で、茶化さず直球のラップをしていたなら、今とは違う日本語ラップのシーンが出来上がっていた、そんな世界線もあったのかなと。
YMOを戦犯にしたい意図はもちろんないし、スネークマンショー曲も岡雅子曲も美味しく戴ける店主ではありますが、そんな風に考えてみると、これはロマン以外の何物でもないなあと改めて。

また、別件でそんな国内事情は恐らく全く加味していないでしょうが、死後2013年に発掘されたJ. DILLAの未発表ビート”GO GET EM”でネタとして使用されていたりもするんで、80年代のUSシーンに影響を受けて制作された”RAP PHENOMENA(ラップ現象)”が、数十年の時を経てUSでもトップクラスと言えるプロデューサーのJ. DILLAに(お蔵入りした楽曲とは言え)ネタとして目に留まっていたことも踏まえると、非常に感慨深いものがあります。

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